23.ガネッシュ・ヒマール探訪

(2011年4月6日〜5月9日)

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 ガネッシュ・ヒマールはランタン山群とマナスル山群の間にある比較的小さな山群であるが、7000m峰が4座ある。
2001年と2009年に私はランタン谷からヘランブーを歩いたが、ゴザインクンドの手前から眺めたガネッシュ・ヒマールの山々に魅せられてしまい、是非機会をつかんで探訪してみたいと計画を暖めてきた。

 ガネッシュ・ヒマールは、日本人との関わり合いの強い山群だが、意外と我が国でも知られていない。1953年の日本山岳会第1回マナスル遠征隊の学術班であった川喜田二郎さんと中尾佐助さんが、アンナプルナ山群からマナスル山群を探査された後、ガネッシュ・ヒマールのシヤール谷に入り、カルチェ村(仮名)に滞在してガネッシュ・ヒマールの北面を眺めてこられた(川喜田二郎著「ネパール王国探険記」)。

 その翌年の1954年に、日本山岳会第2次マナスル遠征隊がマナスルより転進し、トロゴンパ氷河よりガネッシュ・ヒマール1峰に試登した。

 1964年にアンナプルナ南峰(7219m)を初登頂した京大山岳部隊の島田喜代男さんと上田豊さんの2名が、ランタン谷を探査した後ガネッシュ・ヒマールの南面を越えてマナスル山群へのトレッキングを行っている(朝日新聞社発行「ガネッシュの蒼い氷」)。

 インターネットで検索してみても、ガネシュ・ヒマール産のヒマラヤン・クオーツ(水晶)の宣伝ばかりで、ガネシュ山群の登山記録は殆ど掲載されていない。ヒマラヤ名峰辞典を参照して、ガネッシュ・ヒマールの初登頂の記録を参考にさせて貰った。

今回のメンバーは、70歳の三人(宮川清明さん、八太幸行さんと私)。最近Arghat Bazarまで車で入れるようになったらしいが、私達はGorkaから昔のマナスル登山隊と同じクラシック・ルートでGorkaからKhanchowkを経てBudhi Gandaki 河沿いのArghat Bazar ヘ歩く事にした。Gorkaは、プリチビ・ナラヤン・シャハ王が1969年に「ゴルカ王国」として国家統一し、現在のネパール王国の礎となった地である。英国の傭兵として勇猛果敢なグルカ兵の出身地としても有名。

4月9日にカトマンズを車で出発し、途中での昼食時間も入れて約5時間でGorka着。ホテルへ投宿後、下の王宮、上の王宮を訪問。観光客も多く、何となくガサガサした感じの町であった。
 Gorkaからトレッキングが始まったが、Khanchowkへの旧道からは見事に耕された棚田と蜜柑畑や梨畑が見渡され、小ぎれいな民家が立ち並んでいた。この近辺の農家の豊かさが想像された。

 Khanchowkの村から突然新しい車道が現れた。トレッカーには誰一人出会わなかったが、砂埃をあげて走る工事用のダンプーカーには閉口した。残念ながら、前日もこの日も春霞のかかる天候でマナスル連峰は全く見られず。

 1950年台のマナスル登山隊の時代は、Budhi Gandaki沿いの道は、ゴルジュ帯につけけられた狭い危険な道で、しっかりした橋もなかったそうで随分苦労されたそうであるが、現在は幅の広いしっかりした道に整備され、吊り橋も全てワイヤーの頑丈な橋が架かっていて歩きやすい。Arghat BazarからJagat まで3日の行程とし、途中のTatopaniでは温泉の湯で顔を洗う程度で通過し、のんびりしたトレッキング道を歩き4月12日にJagat着

JagatのMCA(Manasulu Conservation Area)のチェック・ポストによると、1995年にマナスル山域が一般に開放された時は入山者はたったの348人だったが、その後年々トレッカーが増え続け、昨年2010年は2,322人になった由。マナスル街道の道も毎年整備して、道迷いのないようにと要所には新しい道標を立てたとのこと。2008年からSyar Kholaの奥の山村やゴンパを訪れるトレッカーの為に「Tsum Valley」と言う名称で新たにトレッカーの入域許可を出すようになった。欧米人を主体にボチボチとトレッカーも増えてきているとの由。係官によると、日本人でTsum ValleyやTorogompa Glacierに出かけるパーテイは、全く記憶がないとの説明であった。Syar Khola 沿いの道で、私達も4パーテイの欧州人に出合ったが、日本人には全く会わず。

5月6日にカトマンズから迎えの車が来ることになっているので、5日は休養日とした。シャブルベンシの近くの村が出身地のポーター達は4日朝に自宅へ帰る事になり、4日の夜は私達で「お別れパーテイ」を催した。ネパールの唄と踊りの楽しい一夕でであった。 全員が良く働く気持ちの良いスタッフ達に恵まれた素晴らしいチーム・ワークの隊あった。ほぼ計画通り完踏出来た充実した楽しい山歩きであり、大変嬉しい大満足の山旅であった。
 魅力的なガネッシュ・ヒマールの鋭峰に、日本の若いクライマーが訪れてくれることを
期待したい。自主的に努力しているのは、このSaleri村のみであった。

 吊り橋を渡って、Budhi Gandakiの左岸の台地の村Philimヘ。この村には、新しく建設された大きな学校が建っていた。ガイドのタシ君の話では、日本の援助で出来た学校の筈との由。Salari程ではないが、Philimも割と小ぎれいな村であった。

 Samaへ向かうマナスル街道との分岐点の直ぐ上の崖の上に張り出した岩で、私達のポーターやキッチン・ボーイ達が休んでいた。私達が通り過ぎて暫くすると、後ろからキッチン・ボーイの一人が泡を食って追いかけてきた。岩の上に置いていた鍋等の炊事道具を入れた籠のドッコが、風に飛ばされて崖の下に落ちてしまったらしい。ロープを入れた荷物を担ぐ前を歩くポーターからロープを受け取って、ガイドのタシ君と二人で岩のところへ戻って行った。ガイドと、コック、キッチン・ボーイ達で、ロープを使って崖下に落ちた炊事用具を回収するのに約1時間程かかったようである。人身事故がなくて、ほっとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 4月15日はLukwaにあるバッテイの前のキャンプ場に宿泊。このあたりからラリーグラスが咲き始めている。カトマンズを出てから1週間になるので、Lukwaで一日休養する事にした。また、この近辺から、ワラビやコゴミがふんだんに生えている。採集してゴマあえにして食べた。

Lukwaを過ぎて暫くすると、対岸の北側にShringi Himal (7165m) の大きな堂々とした山塊が目に飛び込んできた。主峰は1953年にニュージーランド隊によって初登頂されている。真っ赤なラリーグラスの向こうに聳えるShringi Himalは魅力的だ。

 当初はLukwaからRipche経由でDomjeへ行く計画をしていたが、RipcheとDomje間の支谷にかけられた木の橋がかなり腐っているらしいとの噂を聞いたので、Syar Kholaに架けられた新しいワイヤーの吊り橋を渡って対岸のChumling 経由でDomjeへ行くことにした。Chumlingには、新しいロッジが建っていてその前で幕営した。ロッジの裏側にはShringi Himal 山塊の前山の迫力のある鋭峰P6460が聳えていた。ロッジに到着直後、ロッジ前の広場でロバが苦しみのたうち廻っており、あっけなく息を引き取ってしまった。ロバ主とロッジの主人達が、ロッジ前の深い谷のゴルジュにロバを突き落として処分する光景を目にし、命のはかなさを見せられていささかショックであった。

 休息後、ロッジの裏の村へ散歩に出かけた。Syar Kholaの北側は完全にチベット文化圏で、村人は生まれて以来顔を洗った事のないような人達ばかり。薄汚い衣服をまとい真っ黒な顔をした異様な風貌なのは、Lukwaまでの村人との大きな違いである。

 Chumlingを出てSyar Kholaの右岸の道を1時間余歩くと、対岸の南側にガネッシュ・ヒマールの山塊が望まれた。Ganesh Himal 2(7118m)に連なるP6008 とP6030であろうか?
 Syar KholaとTorogompa Glacierとの合流点のRainjamにバッテイがあるが、小屋の前にゴミ入れの大きな缶(Manasuru Conservation Project からの支給品)が置いてあるが、この小屋の前や周囲は捨てっぱなしのゴミの山。
このバッテイの横にキャンプ場があるが、とても幕営する気になれない。河をわたりDomjeの医療所の横からGumba Lungdang への道をとる。ラリーグラスの林を抜けて、約5時間の苦しい登り。3300mのGumba Lungdang のGompaにようやく到着。このゴンパは、チベット仏教の尼寺で若い尼僧の修行所にもなっているようだ。本堂の他に、瞑想室と尼僧用の家が6〜7軒建っており、現在13人の尼僧が修行しているという。本堂の前に、テントを張らして貰って、4月18日より5日間滞在した。

 ゴンパの対岸の西側にGanesh Himal 2 (7118m)につながるP6250, P5893, P6030の三山が連なる。Ganesh Himal 1 (7422) は曇り空で、見えない。ガイドのタシとアシスタント・シェルパのカビラルがトロゴンパ氷河への道を偵察に出かけてくれた。彼らの帰着が遅くなり心配したが、6時過ぎになってやっと戻ってきて一心配する。上のカルカまで行ってきたとの事。

 翌日4月19日朝5時30分にゴンパを出発、いよいよトロゴンパ氷河に入る日だ。ゴンパからのトラバース道を1時間強歩き、谷に降りてしっかりした板の橋を渡る。トロゴンパ氷河の下流の橋で、そのうち地図に書いてある右岸の台地に渡り返すのではと思っていたが、幾ら歩いても道は森の中の急坂をドンドン上がって行くばかり。ガイドの話によると、上の方にカルカが二つあるという。Ganesh Himal 2の支尾根の下あたりになる3800mの二つ目のカルカに10時45分に到着。左手に見える小山の向こうにトロゴンパ氷河があるとガイドは言うが、このカルカへの道は正規のトロゴンパ氷河道でもなく、Ganesh Himal 1のBCへの道でもなくて、単なるカルカへ通じる牧童達の道なる事がハッキリとしたので、今日の偵察はこのカルカまでで打ち切る事にして下山。ゴンパに戻って暫くすると雨とミゾレが降り出した。
 ガイドもシェルパも、他に道があるはずがないと首をかしげている。英語が少し話せる賄い係のゴンパの尼僧によると、彼女がこのゴンパにきてから丸6年たつが、これまで登山隊もトレッカーも誰もきた事がないと言う。しかし、トロゴンパ氷河の内院あるカルカの小屋にはヤクの放牧に行く人がいるので、しっかりした道はついている筈とのこと。

 4月20日に、ガイドとシェルパの二人を偵察に派遣。トロゴンパ氷河の右岸のモレーンの中に絶対正規の立派な道があるはずと説得し、前日渡った橋を渡らずに、その手前にある道を見つけトロゴンパ氷河の右岸のモレーンの中の道を探すように指示した。
 この日の朝は、Ganesh Himal 1 , Ganesh Himal 2他トロゴンパ氷河内院の山々が朝焼けに輝き、ヒマルチュリからマナスルまでの連山を望むことが出来る最高の天気であった。私達メンバーは休養日とし、写真を撮ったり洗濯をしたりして一日のんびり過ごした。

 5時に出発した二人は、昼前にゴンパに戻ってきた。今度は間違いなくトロゴンパ氷河に入って、内院の3900mにあるカルカまで行ってきたとの事。ただし、カルカの近くには水が全くない由。その下の3700mにも良いテント地があるが、ここもチョロチョロ流れる程度の水流で、いつ水が止まるか解らない状態との事。明日からの予定をどうしたら良いか、ガイドも頭を痛めている様子。検討の結果、私達メンバー3人と、ガイドとシェルパの合計5人が3700mのABCに上がり宿泊。テント、寝袋、食料及び20リッターの水タンク等を3人のシェルパに荷揚げさせる事にした。

 尼さん達がゴンパの前での昼食が終わった後、年配の尼僧の許可を得て、私達の明日からのトロゴンパ氷河入りの成功を祈願して八太氏と私の二人で般若心経を唱えさせていただいた。言葉は解らないだろうけど、私達が般若心経を唱え終わったら尼さん達が大きな拍手をしてくれた。尼さん達との垣根が一つとれたような気がした。

4月21日、曇り空だが朝5時40分にゴンパを出発。35分歩いたところで、森の中の道をそのまま河に向かって下らず、左手にあるしっかりしたトラバース道をとる。30分ほど歩いて支沢に降り立ち、ポーターが20リッターのポリタンに水を満タンにした。 巨木の多いモレーンの森の中を歩く。Roktaという桜の花に似た野生の三椏の花が丁度満開だ。1973年に、製紙用原料としてのRoktaの買い付けに、ネパールの山村をあちこち歩きまわったことを懐かしく思い出した。8時50分に板木のしっかりした橋を渡り、暫く登って行くと、森の中から突然抜けだし、広々としたカルカ状の台地に出た。10時10分、台地の奥が少し盆地になっていて、小さな小川が流れているところにテントを張ることにした。標高3700mの我々のABCである。荷物をデポしたポーター3人は、折り返し、ゴンパへ帰って行った。

 テントを設営し、ゆっくりと昼食をとった後、私達3人は午後3時までに帰幕する予定で12時45分に上部を偵察すべく出発した。ABCの上へ一段登ったところにカルカがあり、牧童の小屋掛け用の石組みが2軒あり。Ganesh Himal 1 のBCになったのではと思われる幕営地に適した4000mの地点に14時20分に到着し、この日の行動はここで打ち切ることにした。天候はあまり芳しくなく、曇り空で山の景色はあまり見えなかった。

 15時10分にABCに帰着すると雨がパラパラと降り出し、夕方より雨が小雪に変わった。 日本人3人の我々メンバーは、3〜4人用のノースフェースのテントで、EPIガスを使って自炊。アルファ米の五目飯、高野豆腐、塩昆布、味噌汁の久しぶりの日本食を味わった。雪は未だ降っており、明日の午前中は是非晴れて欲しいと祈るような気持ちで、夕食後直ぐに就寝した。

 夜半に雪が止み、月が出だした。4月22日午前4時起床。私達の般若心経の読経の効果があったのか、快晴のさわやかな朝だ。ABCを5時20分に出発。

Ganesh Himal 1 (7422)は、左手に頭の上から覆い被さるように聳えている。3900mのカルカを過ぎ、Ganesh Himal 1のBCになったと思われる地点から眺めるGanesh Himal西壁は、岩と氷の急峻な壁だ。1954年にマナスルより転進した日本山岳会第2次マナスル遠征隊(掘田弥一隊長)が、トロゴンパ氷河側から挑戦したが6300mで敗退。当時の貧弱な装備でよくもこの西壁に取り付いたものだと感嘆した。翌年1955年に、フランス・スイス合同隊により東面のサンジェ氷河側から初登頂された。トロゴンパ氷河側からは、1985年に韓国・ネパール合同隊、 1986年にスイス隊がGanesh Himal 1 に挑戦したがいずれも敗退。その後トロゴンパ氷河側から登頂した隊があるのだろうか?

 トロゴンパ氷河の突き当たりになる最奥にはピラミッド型のP6863が聳える。トロゴンパ氷河側は、なぎ落ちるような壁になっていて、登路は簡単に見つかりそうにない。未だ未踏峰として残っているのであろうか?

 P6863の左手にP6872が頭の覗かせていて、その更に左(東)にGanesh Himal 3(7043)が覗いている。Ganesh Himal 3は、1979年秋に岡山大学山岳会・ネパール合同登山隊がチリメ・コーラ側より初登頂した山だ。

 トロゴンパ氷河内院の中央には、Ganesh Himal 4 (7104)、別名Pabil がどっしりと聳えている。翼を広げた鳳のような貫禄のある山である。1978年吉尾弘隊長率いる日本勤労者山岳連盟・ネパール警察合同隊が、南面のアンク・コーラ側から初登頂しているが、トロゴンパ側は人を寄せ付けないような厳しい氷壁だ。

 U字型になったトロゴンパ氷河内院の一番右(西)には、修行僧のような容姿のGanesh Himal 2 (7118)が聳える。岩峰の素晴らしい山だ。1981年にトロゴンパ氷河側から、西ドイツ・ネパール合同隊と九州歯科大学隊が同じ10月16日に初登頂している。

 Ganesh Himal 6 (6908)は、Ganesh Himal 2 に隠れてなかなか見えなかったが、モレーンの一番奥の約4200m近辺まで登って、ようやくその姿をはっきりと捕らえることが出来た。Ganesh Himal 2 に隠れていて、あまり目立たない山だったようだ。Ganesh Himal 6が既にどこかの遠征隊によって初登頂されたのかどうかは、不勉強のため不明。

 下流の北面を振り返ると、Shringi Himal (7165)から東に連なるネパール・中国国境の山々の一番東側にGangpengqing(7292=カンペンチン)が望まれた。カンペンチンは、1981年にAACK(京都大学学士山岳会)が初登頂した山だ。まさかトロゴンパ氷河からカンペンチンが望めるとは予想もしていなかっただけに感激は大きかった。

 自分の足でトロゴンパ氷河内院に入り、全ての山々をこの目で見ることが出来て三人とも大満足。トロゴンパ氷河への道が見つからなかったり、天候が悪かったりして、期待していたガネッシュ・ヒマールの山々を全て見ることが出来ないのではと、半分あきらめかけていただけに、その喜びはひとしおであった。11時に3700mのABCに帰着。ポーター達が既に撤収のために登ってきてくれていた。昼食後、テントを撤収して下山。

 ゴンパに帰着する15時頃から空が曇りだし、夕方より雨が降り出して,雪に変わった。今日は、私達にとって本当にラッキーな1日であった。

 4月24日に、トロゴンパ氷河に別れを告げ、ゴンパから下山。帰路、Tsum Valleyの
Rachhen Gompaまで足を延ばす積もりだったが、手前のNakyuまでとした。Nakyuの村から、Langpo(6648)の後ろに頭を出しているカンペンチンを見ることが出来た。

 翌日NakyuからChumling経由で4月25日にPhilimに滞在。私の71歳の誕生日を祝って、宮川・八太両氏がポケット・マネーでロキシーとジュース等を買って、トレッキング・スタッフ全員を招待しての大パーテイを催してくれた。ポーターやキッチン・スタッフとレサム・フィリリを唱い、手を取り合って踊った素晴らしく楽しい誕生日だった。

 翌4月26日にDohbanに移動。ここから後半のガネッシュ・ヒマール南面の9日間のトレッキングのスタートだ。
Dobhanの吊り橋の手前のバッテイの裏から、急な畑の中の道を登り尾根を西の方へ巻いてKeranjeへ出るのだが、ゴルジュ帯の大障壁のトラバースや急坂の下降路が続き、足を滑らせばあの世行きという気の抜けない緊張が続く道だった。当初の計画では、Dhunchetまで足を延ばし、翌日にNauban KharkaからManagi Bhanjyang 経由でBorangに行く計画を立てていたが、DhunchetからBorangまでは1日の行程としては長すぎるとのガイドのアドヴァイスがあり、次の村のKashigaonに幕営した。 翌日はDhunchetに宿泊せず、Nauban Kharkaに泊まって、Dohbanから4日かけてBorang に行く計画に変更した。

4月29日にDhunchetに午後12時半に到着したが、村の女性達がNauban Kharkaにその日のうちに行くのは、無理だとの茶々をいれたり、Nauban Kharka とは全く関係ない他のカルカへの道をガイドやシェルパに教えてしまったので、ガイドは混乱してしまった。尾根を真っ直ぐ登ればNauban Kharkaに行き着く筈なのに、どんどんトラバースを続けてしまい、森の中へ入ってしまった。雨が降り始め、現在地も不確かで、その日のうちにNauban Kharkaに行き着ける公算が少なく、下手をすると事故の元になると判断。午後4時に森の中のやや平らな地を見つけだし、急遽テントを張って幕営することにした。

 4月30日、雨の中を6時40分に出発。現在地が解らないのに、ガイド、シェルパ、ポーターが、てんでバラバラに道を探して行動しはじめたので、危険性が大きいと判断して、「全員一緒に行動すること。勝手に先に行くことは厳禁」との隊長命令をだした。

高い木の生い茂るジャングルのような森の中を、ヤクの放牧道か山仕事の道か判別出来ない踏み跡をトラバース気味に登り続けた。カルカを3つ過ぎ、12時過ぎに4つ目のカルカで、牧夫とその家族に出合った。この地点からNauban Kharkaに行くのは不可能との話。Boranには1日では行けず、次の部落の「リー」 で1泊してからしか行けないとの事。

 現在地が解らないので、お金を払うので、次の集落の「リー」まで案内して欲しいとガイドを通じて交渉し、牧夫の了解を得た。「リー」へ越える峠(3130m)に午後3時到着。自宅のあるカルカに戻る牧夫は、この峠から戻って行った。山仕事にきているらしい二人連れの男性に出合い、峠の名前を聞いたら「 Kuti 」との事。峠から少し下ると、ラリグラスとチマールの素晴らしい石楠花の庭園に出くわした。転がり落ちそうな急坂の道をドンドン降りて行くも、「リー」の集落はなかなか近づかず、結局集落にある学校の校庭のテント場に着いたのは19時だった。

 翌朝、集落の男性3人がテント場にやってきたので、地図を示して質問。この集落は「リー」とも言うが地図上に記載されている「Rigau」だとの説明。心配していた通り、Nauban Kharkaより遙か南に来すぎていることが判明。どうも、Dhunchetの村人の無責任な情報に騙されて、Dhunche Khola沿いに南へトラバースして、Boranの翌日の訪れる予定だったKuriの対岸(Ankhu Kholaをはさみ)の村へ来てしまった事が判明。言葉が解らないので、ガイドとシェルパまかせにしてDhunchetの村人からの情報を収集した事を深く反省。事故がなかって良かったが、誠に恥ずかしい道迷いであった。

RigauからいったんAnkhu Kholaまで1000m程降りて、叉同じだけ登りなおし5月1日はKuriに宿泊。Kuriの村にはこれまでトレッカーが全く訪れていないためか、子供達が幕営地にたちまち集まって来た。珍しいのか、隊員用のテントやキッチン・テント、ダイニング・テントを覗くものと、もの凄い人だかりとなった。子供が大半だが、70~80人も集まって来ただろうか。その晩は夜11時半に、日蓮宗のように鐘と太鼓を叩いてテント地までやってくる者、早朝1時半頃に懐中電灯で各テントを照らし覗きに来る2〜3人の男などがあり、一晩中ゆっくりとまともに寝られなかった。

 5月1日も2日も、天候が思わしくなくガネッシュ・ヒマールの山々は霞んでしまい、残念ながらガネッシュ・ヒマール南面の鮮明な写真は余り撮れなかった。

KuriからKimtang迄は明るく開けた畑地がつづく気持ちの良い農村風景。Kimtangの上村を過ぎると、突然車道が現れ驚かされる。KimtangからDeuraliまでは、約4時間の車道歩き。Deuraliから Trisuli Bazar 迄も、約4時間の車道歩きで5月4日の10時過ぎに到着。町から少し離れた、Trisuli Khola近くの林の中で幕営した。DohbanからTrisuli Bazarまで8日間かけて歩いたが、この間トレッカーには全く出合わなかった私達だけの静かな山歩きであった。

5月6日にカトマンズから迎えの車が来ることになっているので、5日は休養日とした。シャブルベンシの近くの村が出身地のポーター達は4日朝に自宅へ帰る事になり、4日の夜は私達で「お別れパーテイ」を催した。ネパールの唄と踊りの楽しい一夕でであった。 全員が良く働く気持ちの良いスタッフ達に恵まれた素晴らしいチーム・ワークの隊あった。ほぼ計画通り完踏出来た充実した楽しい山歩きであり、大変嬉しい大満足の山旅であった。

 魅力的なガネッシュ・ヒマールの鋭峰に、日本の若いクライマーが訪れてくれることを期待したい。